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リハビリ日記2008年10月号

出所後すぐにお菓子をむさぼり食った

 2008年6月26日。3年半も刑務所で地獄のような日々を送ってきた僕にとっては待ちに待った出所日だった。
 本当は仮釈放によって少しでも早く出所することを期待していたし、保護観察司が早い段階から妹のところへ足を運び動いてくれてもいたようなのだが、最終的に仮釈放は認められなかった、と通告された。理由は教えてもらえなかったが、今年初めに妻との離婚が正式に成立したこともあって、受け入れ態勢ができていないと判断されたらしい。
 満期出所日が6月26日であることは知っていたから、その日を待つしかなくなったわけだが、この何カ月かが本当に長く感じられた。出所が近づいた時点で、それまでとは別の独居房に移るなど、準備は着々と進んでいるのだが、1日1日が長く感じられた。

 ようやく訪れた出所日は、いつものように朝6時半、鳥の声で目を覚ました。点呼や朝食も、それまで3年半やってきたことと変わりなかった。違ったのは係長がやってきて説明を受けた時からだった。「またテレビで活躍する姿を見られるようになる日が来るのを期待しているから」。そんな言葉をかけてくれた。「やっと出られる」という実感が湧いた。
 出所前に、それまで預けていた本とか、洋服とかの自分の持ち物を全て並べてひとつひとつ確認、整理する作業をし、荷造りを行った。妹たちが出所日に着るためにと差し入れてくれた白いジャージとスニーカーも渡された。スーツで正装して出ようかとかいろいろ考えたのだが、結局、動きやすいジャージで、ということになったのだった。
 理由のひとつは、黒羽刑務所から東京に帰るまで、車からは出ないと決めていたからだ。今年2月14日に僕が出所するという誤った噂がなぜかネットに流れて、当日週刊誌などが取材に訪れるなど、よくわからない騒動があったらしく、本当に出所する時も騒動になるのではないか、と妹たちが心配したのだった。車の窓にスモークを張って見えないようにしたらどうかとか、あれこれ考え、とにかく帰る途中は車から一歩も出ない方がよいとなった。実際にはその日、取材に来たマスコミは1社もなく、関係者全員がホッとしたのだったが。
 出所時間は午前8時半だった。刑務所の扉が開けられ、外に出ると、待合室で妹の旦那が待っていてくれた。時々、出所の時間が早まることがあるというので、早朝5時過ぎから待っていてくれたのだという。最初の扉を出る時も、待合室を出て車に乗り込む時も、いっさい後ろを振り返らないようにした。そこで振り返ると再び刑務所に戻ってくるというジンクスがあったからだ。地獄のような日々だった刑務所には、もう二度と戻りたくないと思った。
 車から出ないと決めてはいたのだが、走り出してすぐ、どうしてもと頼んで最寄りのコンビニに寄ってもらった。義理の弟と一緒にコンビニに行き、お菓子を買い込んだ。拘置所と違って刑務所は自分で食べ物などを買うことはできず、甘いものに飢えていたからだ。毎月1回、お菓子の日があって、その日を楽しみにしていたのだが、出所してようやく好きなだけ甘いものが食べられると思った。
 甘栗、アーモンド入りチョコ、そして羊羹などを買い込み、車に戻ってむさぼるように食べた。3年半ぶりにシャバの自由を味わった瞬間だった。ちなみに刑務所での月1回のお菓子の日には、500円のお菓子と300円のお菓子のどちらかが出るのだが、せんべいなど質素なものが多く、僕はいつも、これが500円なの?と思っていた。
 本当は出所したらすぐにドライブインに立ち寄り、ビールとラーメンを飲み食いしたいと思っていた。昔見た映画「幸福の黄色いハンカチ」で高倉健さんが出所してそうするシーンがあって、自分もそうしたいと思っていたのだ。でも、前述したように、目立って騒ぎになるのはまずいということで、その願いはかなわなかった。

出所翌日から体調不良に

 東京に戻って、妹たちと顔をあわせたのはお昼頃だった。その日はずっと、久しぶりに身内と長いおしゃべりをして過ごした。夜には妹が僕の好物の堅焼きそばを作ってくれた。九州の佐賀の出身であった僕は、長崎チャンポンが好きで、おふくろが料理してくれるのを食べるのを楽しみにしていた。21歳で芸能界にデビューしてからも、忙しい合間をぬっておふくろの所へは足を運んだのだが、堅焼きそばは、病気で死んでしまったおふくろの思い出とつながる食べ物だった。
 その夜は、妹たちと水入らずで明け方まで語りあった。早朝になってから、布団に入ったのだが、生活が急に変わったせいか、ずっと寝付けなかった。久しぶりにシャバの自由な空気に触れてホッとはしたものの、自分の将来は決して楽観できるものでないこともわかっていたから、その不安も頭をよぎっていた。
 翌日から妹の世話になることになったのだが、どうも眠れず、体の具合が悪くなった。食欲も出てこず、1日1食、それもあまり食べられなかった。刑務所にいた時、シャバに出てそれまでと違う食事をすると多くの人が下痢をすると聞かされていたのだが、その通りになった。刑務所の麦飯はうまいと思ったことはないのだが、3年半いるうちにその生活に体がなじんでしまったのかもしれない。出所したその日はテンションが上がっていたのだが、翌日以降、体調不良に悩まされた。
 体調が悪くなった一番の理由は、常用していた睡眠導入剤を飲まなくなったからだ。それまでずっと刑務所では、夜7時頃に睡眠剤を3錠処方され、飲んでいた。消灯は9時で、その頃には眠りにつけるようにと飲むのだが、元々神経質な僕の場合、それでもなかなか眠れないことが多かった。服役して最初の頃は5錠も飲んでいたこともあったが、さすがに頭がボーッとして副作用が出たので、その後は飲みすぎないように心がけていた。
 僕の場合、満期出所だったので、保護観察司がつくこともなく、それまで常用していた睡眠剤も処方されず、出所翌日にはその影響で手が震えるようになった。食欲不振や不眠もそのせいであることは明らかだった。その後、検査入院をした時に医者からもそのことを言われ、睡眠剤を再び飲みながら徐々に量を減らしていくというやり方をするようになった。7月16日の記者会見で、ろれつが回らず、手も震えているというので覚せい剤の影響が抜けていないと言う人もいたのだが、あれは久々に大勢の前に出た緊張と、刑務所での睡眠剤常用の副作用だったのだ。

入院先の病院から記者会見に臨んだ

 体調がよくないのを心配してくれた妹たちの勧めもあって、7月14日から病院に検査入院することになった。CTスキャンも含めて、体のあらゆるところを検査し、薬物依存で服役していたことも説明して、医師からいろいろアドバイスを受けた。僕の場合、刑務所では幸い覚せい剤の後遺症などはいっさい出ず、水虫以外は何の病気もせずに済んでいた。
 16日のトークライブと記者会見は、その病院から外出許可をもらって臨んだものだった。トークライブについては出所日の夜に来てくれた『創』の篠田編集長から聞かされたのだが、その後体調が思うように回復しなかったため参加するかどうか前日まで妹たちと相談した。それでも結局参加したのは、篠田編集長にあれこれお世話になったことに応えなくてはならないという思いもあったが、それ以上に、出所してから寄せられたファンからのあたたかい励ましの手紙やメールに接したからだった。
 正直言って刑務所を出る時には、もう自分は世間から見捨てられているのだろうという思いもあったのだが、そんな僕のためにファンの方々から届いた熱いメッセージには、励まされ、背中を押される思いだった。トークライブにも九州を始め全国から参加申込みが来ていると聞いて、本当にありがたいと思った。
 トークライブにマスコミの取材申込みがたくさん来たため、時間をずらして記者会見を行うことになったというので、夕方5時前、病院からタクシーで会場の阿佐ヶ谷ロフトAに向かった。会見に臨んだ時の服装がアロハシャツだったことについて非難を受けたりしたが、あれはお世話になっている妹の旦那から借りたもので、あれしかなかったのだ。
 出所後、自宅の鍵を預けたままの息子とはまだ一度も会えておらず、マスコミが張り込んでいる可能性もあるというので自宅に戻っていないため、出所の時のジャージ以外、着るものもないのが実情だった。ハンチング帽にサングラスという格好は、自分が緊張してしまうのがわかっていたためだった。別に格好をつけたわけではないのだが、誤解を与えたとすれば僕の不徳の致すところだ。
 でも、会見にあんなに大勢の報道陣が押しかけたのには驚いた。タクシーを降りて会場の入り口に入ろうとした時、待ち構えていたカメラマンが次々とストロボをたいたのには緊張した。妹が後で教えてくれたが、僕の顔が思わずこわばったそうだ。
 会見では自分なりに一生懸命質問に答えたつもりだが、何しろそんな大勢の前に出るのは久しぶりだったので、何を答えたのか覚えていないほど緊張した。今思い出しても「夢のなかの出来事」だったような気がするほどだ。
 芸能界復帰の意志はあるのかという質問に、今はそういうことを考える時期ではないし、それは自分が決めるべきことでもない、と答えたのだが、その時に「自分なりに自信はあったりするんですが」と言ってしまったことで、スポーツ紙やテレビでは、まだ芸能界に未練があるのかと非難された。自分なりに自信があるというのも、あの時のやりとりでとっさに言ってしまったもので、あの会見で芸能界復帰への意志を表明するとか、そういうつもりは全くなかったというのが本心だ。

薬物依存をどう克服するか

 それから、質問に答えて、ダルクなどの薬物依存専門のリハビリ施設に入るつもりはないし、自分で治せる自信もあると言ったことも物議をかもしたようだ。別に医師に相談したりアドバイスを受けることをも拒否するわけではないのだが、今のところは自分の力で薬物依存からは脱却できると思っている。
 前回逮捕された時も、薬物はやらないと言いながら結局やっていたではないかと突っ込みたい人もいるとは思うが、あの時は、家族に見捨てられたという思いから、自暴自棄になってしまったもので、その家族との関係については今は自分なりに気持ちの整理はついたと思っている。確かにこれからのことを考えると大変な状況だとは思うが、気分が落ち込んでいるわけではないし、クスリを欲するような精神状態ではない。むしろ再び薬物のことを思い出すような状況に自分を置きたくないという気持ちなのだ。
 ただ妹たちを始め、周囲でも心配してくれる人が多いし、会見を受けて和田アキ子さんやテリー伊藤さんらも、まず体を治すことに専念してほしいとアドバイスをくれたので、自分でもよく考えてみたいと思う。美川憲一さんがこんな僕のことを今回も気づかってくれて激励のコメントをくださったのには、本当にありがたいとしか言いようがない。
 ありがたいといえば、会見の2時間後に行われたトークライブで、入場した瞬間にものすごい拍手と声援が飛び、しばらく鳴り止まなかったのには驚いた。福岡や石川、青森など遠くからわざわざ来てくれたり、会社を休んで来たという人も多く、それまで緊張していた僕の気持ちがやわらぎ、励まされた。この場を借りてお礼を言いたいと思う。
 薬物依存に対しては、刑務所でも矯正教育といったものは特に行われず、今年になってから出所を間近に控えた者のために行われた講習会を受けただけだった。それも希望者のみ受講できるということだったのだが、僕はためらいなく希望した。薬物依存について、自分自身きちんと知っておきたいという気持ちがあったからだ。
 講習は1月から毎週1回、出所を控えた受刑者を集めて行われた。薬物の恐ろしさを説明したビデオを見たり、ダルクの人が3人くらい来て話をしてくれたり、ロールプレイングゲームのようなこともやった。1人が薬物を再び勧める側の役を演じ、もうひとりがそれを断る役を演じる。薬物の誘惑を自分がどう断ち切るか、そういう場面になりきって考えてみるというゲームだった。
 講習会で教わったことは、もちろん参考にもなったし、役に立つとは思うのだが、大体僕が以前から知っている内容だった。自分でやっている時も、薬物の怖さを頭の中では理解していたからだ。
 でも正直言って、刑務所は薬物依存からの更生という意味ではあまり役立っていないと思う。矯正教育がわずか4〜5回の講習だけというのも象徴的だし、薬物依存で服役していた人たちは大半が、もうやめられないよなあと言っていた。なかには刑務所内で薬物依存者同士が結託し、出てから薬物がほしくなったらおいでよ、などと言っている例もあった。
 刑務所で薬物依存を断ち切るための更生教育がなされていると思っている人は恐らくほとんどいないと思う。むしろ刑務所は人間をだめにするところだという印象の方が強い。

刑務所では受刑者が人間扱いされてなかった

 拘置所から刑務所へ移ってから一番感じたのは、拘置所はまだ人間らしい環境だったということだ。刑務所は全てが軍隊のようで、服役している者は人として扱ってもらえないところだった。
 毎日、工場で作業に従事するのだが、封筒貼りや造花を作る作業など、単調であまり意味もないもので、しかもある程度の数をこなさないと注意を受ける。毎日毎日そんなことの繰り返しで、3年半は本当に長くつらい地獄の日々だった。
 食べ物も拘置所に比べて質素なものだった。ラーメンでも拘置所ではチャーシューが乗っていたりするのだが、刑務所はそれがないといった違いだ。それでも食べることが服役中唯一の楽しみだったから、いかに希望のない生活だったかがわかるだろう。大晦日には年越しそばとして「どん兵衛」が出されるのだが、それでも御馳走だというのでみんな汁まで一滴も残さず飲む。正月にはおせち料理らしいものが出るのだが、拘置所の時ほど品数もなかった。
 服役中は夜は7時から9時までの時間、部屋でテレビを見ることができた。番組は刑務所が決めたもので、チャンネルは2つしかついていなかった。また5時から9時までラジオ放送も流れていた。聴きたくない人は自分でスイッチを切ってしまうのだが、これも番組は決まっており、選択はできなかった。そのほか新聞は自分で購読することになっており、読売新聞を読めるようになっていた。
 服役中は新聞をとっていたし、テレビも見ていたから、あまり世の中についていけてない気はしなかった。しかし、出所後、以前の携帯電話が使えなくなって、プリベイド方式の携帯電話を使うことにしたのだが、4年前と比べてずいぶん操作が複雑になっていた。確か以前使っていた携帯電話にはアンテナがついていたと思うのだが、妹に聞いたら、今はそんなの誰も使ってないと笑われた。
 でも何と言っても刑務所で大変だったのは、冷暖房が全くないことだった。夏は暑いし、冬は寒さのために、夜、布団をかぶって寝ようと思っても寝付けない。しかも、夜は1時間おきくらいに看守が見回りに来るのだが、テレビで見る北朝鮮の兵士のように靴音をたてて歩いてくる人もいて、寝ようとしている人間のことなど考えていないのかと思った。なかには気をつかって忍者のように足音を忍ばせて見回る人もいたが、いずれにせよ僕は元々神経質で眠れない方なので、1時間おきの見回りには本当に閉口した。
 風呂は1日おきとか、拘置所と同じく刑務所の生活は規則正しいものだった。僕がいたのは独居房だったが、1時間休憩の時間があって、他の服役者と話す機会もあった。僕のいた15工場は障害のある受刑者が多いところで、どうも僕は目立たないようにと、そこに収容されたらしい。同じ工場には外国人もいて、例えばブラジル人とか、日本語の話せない中国人もいた。日本語の話せない中国人は、他の受刑者に通訳してもらったりしていたが、おかしいことに、そいつには森田という日本語の名前がついていた。また親しくなったゲイの男性が2人いて、そのうちの一人は僕より少し先に出所したのだが、7月7日の七夕にはぜひ会いましょうよ、と約束したが、まだ連絡をとっていない。
 運動は、1日1回、グラウンドへ受刑者が行進していき、そこで体を動かすのだった。ジョギングをしたり、腕立て伏せをしたり、みんな思い思いに運動した。運動場には、サッカーができる設備も備わっていた。
 隔週の金曜日には免業日といって、作業をしない日があった。といっても居房で横になってはいけないという規則があるため、僕は大抵本を読んで過ごした。前に所属していた会社の社長から、読みきれないほどの本が差し入れられていた。
 刑務所には病院の待合室のようなラウンジがあって、そこにカラオケが置いてあるため、他の受刑者から1曲歌ってよとリクエストを受けることがあったが、オレは嫌だと言って一度も歌わなかった。そんなふうに特別扱いされるのが居心地が悪かったし、もともと歌がうまいのは鈴木リーダーで、自分は歌がうまいと思っているわけではなかったからだ。
 刑務所では多くの受刑者が僕のことを田代まさしだと知っていて、なかには知らない受刑者にわざわざ教えている者もいた(僕には迷惑だなという気持ちの方が強かったのだが)。本誌前号で紹介されていたように、僕に「この刑務所に田代まさしがいるんだってよ」と訊いてくる受刑者がいたのには驚いた。胸には「田代」という名札もついているし、「あ、オレがそうなんだよ」と言ったのだけれど、なぜか通じず、「いや、違うんだよ、あの元歌手の田代だよ」と言われた。メガネもかけてないし、ひげもはやしてなかったためかもしれないが、あの会話がなんだったのか、今でもよくわからない。

出所後、息子とは電話で話した

 僕の逮捕事件では多くの人たちにご迷惑をおかけした。特にラッツ&スター再結成の計画が動いていた時だったから、鈴木リーダーには本当に申し訳なかったと思う。そんな僕のために、リーダーは拘置所にも面会に来てくれた。オレは高校時代、非行少年で暴走族に入っていたのだが、そんな時知り合って、一緒にバンドをやろうと誘ってくれたのがリーダーだった。
 デビューしてから後は、志村けんさんと一緒にコントをやることが多くなったのだが、リーダーに対する尊敬の思いは一貫して変わらなかった。刑務所でテレビを見ていて、ラッツ&スターがゴスペラーズと、ゴスペラッツという名前で歌っていたのを見た時には、オレはなんで今こんなところにいるんだろうと悲しくなった。
 出所したばかりの頃は、知人の連絡先を登録していた前の携帯電話が使えなくなったため、誰とも連絡がとれない状態だった。今は新しい携帯を使えるようになったため、昔お世話になった人たちに少しずつ連絡をしている。
 息子とは一度だけ電話で話をした。近々会いに行くよと言っていたので、間もなく会うことになると思う。別れた妻や娘とは、もう4年ほど会っていない。そもそも2回めの逮捕となった事件が原因で家族とは別居することになったのだが、僕にとっては家族というのは一番大切なよりどころだったから、なるべく早く家族一緒に生活したいと思っていた。しかし、当時は子どもたちが僕の事件のことで学校で嫌な思いをしたり、家族といるところを写真週刊誌に盗撮されたりといったことがあって、家族との関係はなかなか修復できなかった。そのうちに妻はうつ状態になってしまい、事態はますます望む方向と逆に進んでしまった。

死のうと思った時にいつもオフクロが現れた

 今年ももうすぐ誕生日がやってくるが、2004年8月31日の48歳の誕生日のことは今でも覚えている。別居中だった家族からは1通のメールも送られてこず、家族との関係が断ち切れたことを認識させられたのだった。その頃、もうどうにでもなれという気持ちになって、薬物に再び手をそめるようになっていた。
 9月20日に逮捕されるまでの間の10日間ほどは、薬物におぼれたような状態で、もうその頃は自分はこのまま死んでしまうかもしれないとさえ思っていた。逮捕されてからも何度か、死んでしまいたいという気持ちに陥ったが、不思議なもので、そのたびに死んだおふくろが夢に現れた。日傘をさした笑顔のおふくろが、オレを引きとめるのだった。
 おふくろはオレがデビューして数年後、オレが27歳の時に病気で死んでしまった。父親が異なる2人の妹とは上の妹が7歳、下の妹とは13歳も離れている。妹たちは、裁判でも証人になってくれて、「兄は父親代わりとなって自分たちのめんどうを見てくれた」と証言してくれた。そして今回、出所にあたってもいろいろめんどうを見てくれている。今はまだ将来のことを考える余裕もないのが実情だが、そんな妹たちの思いに応えるためにも、少しでも早く一人で生活できる状態になりたいと思っている。
 薬物依存から立ち直るには、自分の自覚だけではだめで、本格的な治療が必要だと多くの人に言われた。これからもいろいろな人の助けを借りることになるかもしれないが、最終的に大事なのは自分自身の意志だと思っている。今度こそ本当に立ち直って、心配をかけた人たちに恩返しがしたいと思う。離婚した妻には幸せになってほしいと思うし、子どもたちは家庭は別でも肉親だ。可愛い娘と息子のためにも、これから恥ずかしくない父親になりたいと思っている。 (談)

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